京都地方裁判所 昭和46年(ワ)522号 判決 1980年3月28日
原告
飯田五男
右訴訟代理人
立野造
同
猪野愈
被告
国
右代表者法務大臣
倉石忠雄
右指定代理人
上原健嗣
外九名
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
(請求の趣旨)
1 被告は原告に対し、金五二七三万一八二八円及び内金四七一七万〇九一四円については昭和四六年五月一六日から、内金五五六万〇九一四円については判決言渡の日から支払済みまで各年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言<以下、事実省略>
理由
第一〜第三<省略>
第四被告の責任について
一診療契約の成立
第一に示した原告の診療経過に基づき原被告間に締結された診療契約の成立時期及び内容につき検討すると、(診療契約が成立したこと自体は当事者間に争いがない。)原告は昭和三八年五月三一日右眼に視力障害を訴えて京大病院眼科に来院したものであるが、診察の結果両眼未熟白内障と診断されて経過観察を受けることになつたのであるから、右日時において原告の両眼につき京大病院は適切な診察及び治療をなす義務を負う診療契約が成立してそれが最後迄続いたと認めるのが相当である。又京大病院は国立大学付属病院として、現代医学の最高水準の人的、物的設備を備えていることは公知の事実であり、鑑定の結果によれば京大眼科は我国網膜剥離研究のメッカと言われていることが認められるのであるから、被告に求められた診療行為の水準は当時における我国の最高水準のものであつたというべきである。但し診療契約は準委任契約であるから医師として誠実真摯に義務を尽くせばよく疾病の治癒又は軽快が必ず要求され治癒しないときは直ちに義務違反があるということができないのは当然のことである。
二浅山教授の心身の状態について
原告は、浅山教授は原告の入院期間中、到底手術に堪えられない心身の状態にあつたと主張する。
しかし<証拠>によれば次のとおり認められる。浅山亮二医師(明治三七年一〇月一日生)は昭和二五年二月二八日京都大学医学部教授となり、昭和四〇年一月一六日医学部附属病院長、同年五月京都大学評議員、昭和四一年七月二七日から九月まで前示のとおり欧州各国に出張、昭和四二年一一月一日京都大学結核胸部疾患研究所教授を併任、昭和四三年三月三一日定年退官し同年八月一五日大阪北逓信病院長就任という経歴を有する。(右の如く昭和四〇年一月から京大病院長を兼任し、更に二か月にわたる公務による海外出張をしたのであつて右事実からも同教授は健康であつたことが窺える。)ただ病院長を兼任するなど多忙であつたため同教授は過労が続くと肩凝りが起き、勤務を休むことがあつた。
しかし海外出張前及びその一、二年後いわゆる人間ドックに入つて精密検査を受けたところ、軽い糖尿があつたほかは異常はなかつた。なお同教授の手術予定が延期されたことはあるが、これは病院長としての公務による差支えや右の過労から来る肩凝りなどのためであつた。
以上のとおり認められ、原告入院時の浅山教授の健康状態は年令(昭和四一年当時六二歳)相応の健康及び体力を有していたというべきであり、これに反する原告の主張は採用できない。
なお又原告は浅山教授が執刀して手術が不成功に終つた患者が多数いる旨主張するが、<証拠>によれば、入院患者の中でも教授が執刀する患者は重症かつ悪性で、手術のむずかしい患者が多く、ために同教授が執刀してもその予後が必ずしも良くない患者がいたことが認められ、同教授が執刀した患者に予後の良くない患者がいたことをもつて直ちに同教授の手術手技や健康状態を云々することはできない。<中略>
三原告の右眼について
(一) 右眼の失明の原因について
原告の右眼につき前示の原告の眼の病状及び診療経過を要約すると次のとおりである。
昭和三六年五月頃から霧視を来たし、同三七年八月白内障の診断を受けた。同三八年二月頃から飛蚊症、変視症、視野欠損があり同年五月二五日国立京都病院で網膜剥離の診断を受けた。
同年六月二四日変視症の訴えにより京大病院でも網膜剥離と診断され入院のうえ同年七月一九日ジアテルミー凝固術及びボリビオールプロンベ縫付術がなされた。同年九月二〇日に剥離は略復位したので同病院を退院してその後も通院を続け、白内障の進行状況の観察と網膜剥離術の予後の観察を受けていた。昭和四一年六月七日同病院に再入院し、同月一〇日嚢内法により白内障手術を受け、更に同月二九日後発白内障の手術を受けた。同年七月五日の眼底所見は網膜は鼻上部は略復位しているがその他の部分は扁平に剥離していた。同月二七日診断学的虹彩切除術を受けた。
これにより眼底が詳細に透見でき剥離の状態が明瞭になつたので同年一〇月七日プロンベの締め直し術が行われその結果術直後は剥離は著明に減少したが、その後再び剥離し、同年一一月一六日行われた強膜短縮術及び赤道部輪状締結術の効果も期待程でなく、同年一二月一六日のシリコンプロンベ縫付術の直後はやはり剥離は著明に減退したが、その後再び増強して術前と変らなくなり、同四二年一月二〇日シリコンプロンベ縫付術が再び行われたがこれも効果はなく、同年三月には網膜は殆んど胞状剥離となつた。そこで同年四月七日液体シリコンを硝子体腔に注入する手術がされた。同年一〇月には上半分の剥離は広範囲に殆んど復位しており下半分の剥離は扁平であつたが、視力は指数弁であつた。同年一二月から昭和四三年二月にかけ網膜の変性、委縮が認められ同年八月には視力は眼前手動弁となつた。同月二一日京大病院を退院した。その後原告右眼は光覚弁から失明するに至つた。
右のとおり要約できる。原告右眼は既に昭和三八年に一度網膜剥離を起し手術を受けていたのであり、第二回入院前の通院中にも前示のとおり固定したとはいえ扁平剥離をしているという診察を受けていたこと、乙号証によれば網膜剥離眼の眼圧は一般に低値を示すことが認められるところ、第二回入院時の検査において右眼眼圧は4.39mmHgと第一回入院時の眼圧一六mmHgと比して著明に低かつたこと、視野検査の結果も単に白内障だけによる障害とは考えられない狭窄を示していたことなどのほか前示網膜剥離の一般的成因に照すと第二回入院中の昭和四一年七月五日に発見された網膜剥離は、第二回入院前に既に生じていたと認めるのが相当である。したがつて同年六月一〇日の嚢内摘出手術、同月二九日の後発白内障に対する切嚢術、同年七月二七日の虹彩切除術が網膜剥離の原因でないことは明らかである。原告は武田幸信医師による誤つた洗眼方法が網膜剥離の原因である旨主張するが、証人浅山亮二の証言、鑑定の結果に照らし到底採用できない。
原告は右の手術は網膜剥離の原因でないとしても、原告の右眼に生じていた網膜剥離を増悪させ中心部だけの剥離から全剥離へと拡大させた旨主張するのでこの点につき検討する。
原告が再入院した昭和四一年六月一〇日に網膜剥離が生じていたことは前記認定のとおりであるが、前示診療経過によると当時白内障の混濁のため眼底透見できず、剰離の程度、範囲は不明であつた。嚢外法による水晶体摘出後も後発白内症のため透見できず、切嚢術の後ようやく眼底が僅かではあるが透見でき同年七月五日には網膜は鼻上部(内上方)は略復位しているがその他の部分は全体に扁平に剥離していた、しかし詳細は不明であつた、虹彩切除後の八月一日には内上方に剥離はなくそこを除いて全般に剥離があり後極部に軽度の胞状剥離があつた、この状態は同月二〇日も同様であつたというのであり、七月五日の所見はなお後発白内障のため詳細に眼底が観察できなかつたものの八月一日の所見とほぼ同様であつたと推認せられる。(八月一日の後極部の軽度の胞状剥離は七月五日の段階では十分に透見できなかつたたため扁平剥離と区別がつかなかつたと認められる。)したがつて客観的な眼底所見からだけみても少くとも七月二七日の虹彩切除術が増悪の原因とは認められないし、六月一〇日の嚢外法、同月二九日の切嚢術が増悪要因であることを認めるに足りる証拠もない。
かえつて前示診療経過に認定のとおり右嚢外法及び切嚢術自体は適切になされており、術後の経過も後発白内障が生じたほか軽度の虹彩前癒着、後癒着があつた程度(ただし六月二三日から二六日にかけて角膜の浮腫、混濁があつたようであるが一時的なものと認められる。)であるので、硝子体及び網膜に悪影響を及ぼすものではなかつたと認められるのである。(球結膜の刺激症状、前房内の浮遊物等は、通常手術後にみられる生理的反応と認められる。)
原告は嚢外法の手術の際残留皮質の洗い出しが不十分であつた、洗い出す際前置縫合糸を締めることは洗い出しを困難にするにもかかわらず浅山教授は三本の前置縫合糸のうちの二本を締めてから洗い出した、洗い出すための液としてアセチルコリン(縮腫剤)を用いるのは縮腫により洗い出しが一層困難となるので不適切であると主張しかつ供述する。
たしかに、証人浅山亮二の証言によれば、嚢外摘出を受けた患者のうちで後発白内障の手術を必要とする者は四分の一程度であり、その他は後発白内障が生じないか、生じても自然吸収されるというにあるのに、原告の場合は切嚢術後も眼底の透見が十分できない程後発白内障があり、虹彩切除術の際にも後発白内障の切除がされたくらいであるから、厚い後発白内障が残つたことが推認され、嚢外摘出術の際の残留皮質が多かつたと認められる。
しかしだからといつてこれを以て直ちに浅山教授の手術に手落ちがあつたということはできない。それは残留皮質が多かつたのは、原告の水晶体を嚢外法により摘出した後も透明な皮質が後嚢に付着して残り、洗浄によつてもこれを洗い出すことができなかつた場合及び原告の後発白内障の吸収力が弱かつたことなどが考えられるからである。原告は同教授が二本の前置縫合糸を締めて角膜弁をせばめたこと、アセチルコリンを用いたことが洗い出しが不十分である原因というが、証人浅山亮二、錦織劭の証言によれば右の方法は同教授が常に用いる決まつた方法であり、特にアセチルコリンは濃度のうすい四〇〇倍のものが使われ縮腫効果が現われるまで時間を要することが認められるのであり、同教授の手術の方法が不適切であつたため残留皮質が多かつたということはできない。抑々原告の残留皮質が多かつたため、切嚢術を要し、かつ切嚢術後の虹彩後癒着(この場合は虹彩後面と後発白内障との癒着)があるため虹彩切除術が必要であつたとしても、右各手術侵襲又は虹彩癒着により原告の網膜剥離が発症したり増悪したのではないことは前示のとおりである。
更に原告は第二回入院後網膜剥離に対する手術として赤道部輪状締結術を早期の段階で施行すべきであつた旨主張する。
しかし、証人浅山亮二の証言によれば、第二回入院中の最初の網膜剥離としてプロンベの縫い直しをしたのは、第一回入院時のプロンベ縫付術が成功し、網膜の復位をみたことから、今回(昭和四一年一〇月七日)も先ずプロンベの縫い付けを試みたというのであり、鑑定の結果(註一〇の参考文献)によれば、右文献の論者の市橋賢治はどんな手術においても適応は症例の状態だけでなく術者の経験と判断すなわち裁量にまつところが大であり、ことに網膜剥離手術についてはその傾向が強いと述べ、輪状締結術の適応としては(一)硝子体の変化が強く、そのため網膜剥離を来たしている症例、(二)網膜裂孔や前裂孔状態の変性が多数存在し、かついくつかの象限(quadrahts)に散在している場合、(三)無水晶体における網膜剥離、(四)再手術の症例、(五)術後安静の困難な症例である旨述べていることが認められ、網膜剥離の手術としていかなる手術を選択するかは、患者の状態を診察している術者の経験と判断によるところが大きく、かつ右の適応とされるものの中でも原告の右眼は(三)及び(四)にしか該当しないところからすると、前記浅山教授の処置は医師として術式を選択する裁量の範囲内にあるというべきである。のみならず、昭和四一年一〇月七日に輪状締結術を採用しなかつたために原告の網膜剥離が治癒しなかつたということは到底できない。
当裁判所は、以上に認定の原告の病状及び診療経過、網膜剥離の成因、発症機序等を総合し、これに鑑定の結果をも併せ考え、原告の右眼が治癒しなかつた原因は京大病院における手術及びその他の処置の不適切によるものではなく、原告の網膜剥離自体が原告の体質的な素因を基底とする悪性のものであつたためであると認めざるを得ない。
(二) 京大病院における術前の検査、術式の選択等について
原告は白内障手術の際術前に光指南力検査、ERG検査(網膜電気図)眼圧測定などの検査をしなかつた、右眼白内障は嚢内法によるべきであつた、又虹彩癒着を防止する処置を怠つた、液体シリコン注入により網膜組織に変性が起き失明は決定的になつたなどと主張する。当裁判所は右の事実が仮に認められるとしても、それと原告の失明とは因果関係がないと考えるが、念のため検討することにする。
(1) 光指南力検査、ERG検査、眼圧測定について
乙号証、鑑定の結果によれば、光指力検査(光投射法)、ERG検査は、水晶体が混濁していて眼底が検査できないときに網膜の疾患の有無を判定する検査で、この検査により網膜に疾患が存在することがわかり、白内障手術をしても視力回復が認めないと判断されるときは手術は行われないこと、投射法は原始的な方法であり、患者に前をみさせておいて、懐中電灯を各方向から眼にあて、患者にその方向を言いあてさせるものであるが、粗雑な方法で眼底の小さい変化を知ることができず、この検査方法は大体の目安にはなるが結局手術してみなければわからないこと、ERGとは、背椎動物の眼球にある網膜静止電位(角膜側がプラス、後極部がマイナス)の暗調応状態から明調応状態にかわる際の電位差の変化(網膜動作電流)を誘導して記録するものであるが、ERGが正常でも黄斑部に障害があるときがあり、この時は視力があまり期待できないこと、ERGは昭和三七年眼科学会の宿題報告として採用され、原告の手術の当時ようやく臨床的応用がされ始めており、未だ一般的でなかつたこと、ERGはむしろ手術予後の推測の一つの指標としての意味を持つことなどが認められる。
前示のとおり第二回入院時光投射法は右眼について行われていた(その結果はほぼ良好とカルテに記載されているが、証人浅山亮二はむしろ良好でないという趣旨に解すべきだという)から原告の主張はその前提を欠き、ERG検査は右眼白内障手術前に行われていないが、浅山教授ら京大病院医師らは、通院中の眼底所見、第二回入院時の眼圧、視野検査から網膜剥離の存在を疑つていたことは前示のとおりであり、ERG検査をせずとも第一回入院以来の病状の把握及び第二回入院時の精密検査により医師らは原告の網膜剥離を予測していたのであるから、前示ERG検査の当時の一般的な実施頻度、信頼性、有用性をも併せ考えれば、この検査をしなかつたことをもつて医師らを非難することはできない。
又眼圧測定は乙号証、鑑定の結果によれば、主として緑内障の診断に用いられるのであり、原告の如く入院時の眼圧が低く、入院後も緑内障の症状及び疑いのなかつた患者に対しては、白内障手術前に測定する必要はないというべきである。
(2) 右眼に嚢外法を選択したことについて
原告は右眼は未熟白内障であり、後嚢の混濁が強かつたこと、引き続き左眼を手術する場合の第一眼手術であつたことなどを理由に嚢外法ではなく嚢内法により手術をすべきであつた旨主張する。
しかし原告の白内障の進行程度が成熟に近かつたことは前記認定のとおりであり、又混濁の部位は後嚢自体ではなく、後嚢側の皮質であつたことも同様である。又第一眼手術の時に嚢外法を避けるべきというのは、嚢外法において水晶体質の残留が多いときは水晶体過敏性眼内炎を併発しやすいからにあるというが、原告右眼には術後若干の刺激症状及び虹彩の前癒着及び後癒着が生じたにとどまり、水晶体過敏性眼内炎は証拠上認められない。そうすると原告の主張は全部その前堤を欠き失当である。原告右眼は前示のとおり成熟に近かつたこと、網膜剥離が疑われていたのであり、前示嚢内法と嚢外法との適応の比較表からみても嚢外法を採用したことが間違であつたということはできない。
(3) 虹彩全幅切除について
昭和四一年七月二七日の虹彩切除は上部を全幅にわたつて切除されたが、これは診断学的虹彩切除術であり、眼底を透見する目的からみて右手術は必要にして十分と認められ、部分切除で足る理由はないといわなければならない。のみならず全幅切除と原告との網膜剥離との関連性は何ら認められない。
(4) 硝子体内シリコン注入術について
乙号証、鑑定の結果によれば次のとおり認められる。
シリコンは約一〇〇年前に合成された無色透明の物質で生理学的化学的に非活性であり、液体シリコンが人体に無害であることは二〇年前から知られていた。一九五八年ストーンはこの液体シリコンを初めて家兎の眼内に注入し無害であつたことを報告し、一九六二年アメリカのチビスらは初めて人の網膜剥離患者の硝子体腔にこれを注入しその治療成績を報告した。チビスらがこの術式を行つた患者は巨大裂孔又は裂孔縁網膜の反転している網膜剥離、高度の硝子体収縮の存在する網膜剥離、高度の網膜委縮と多数裂孔を有する症例である。同人らは右報告の要約として次のように述べている。硝子体内注入の行われた三三例の患者を七か月間観察したが液体シリコンは無害であつた。右症例は希望の持てないものであつたにもかかわらず多数の眼では視機能的にも解剖学的にも改善を示した。しかしこの方法が広汎に利用されるためには液体シリコンが更に長期間無害であることを確めなければならない、と。
その後外国においてはデューフォー(一九六二〜一九六四)の二八例、ニーセル(一九六四年)の四例など多くの治験報告がなされた。この硝子体内液体シリコン注入の適応はチビスらによると(一)多数回の剥離手術によつても治癒しない症例、(二)高度硝子体退縮の二つであるとされている。
我国においては東北大学の浦山、小島(現姓森本)らによりこの研究がなされ、昭和四一年網膜剥離研究班会議において本邦における臨床応用の最初の例が報告された。これは難治性の網膜剥離の患者三例に注入したもので剥離はかなりよく復位し、六週間後ににおいても副作用をみないというものであつた。同人らは昭和四三年「臨床眼科」に二〇例の治験報告をした。その結果は、手術直後から一か月の間において眼底所見、視野、視力の改善による初期効果を認めたものは一八例あり、三か月から一年五か月の長期観察の間に悪化したのは一七例中八例を数えた、というものである。同人らは同年四月発行の雑誌「眼科」においてこの術式の適応として裂孔発見が困難で安静に抗して剥離が進行し、時に硝子体混濁も強くて打つ手に窮する悪性の剥離や、従来の諸術式がすべて無効で依然として剥離が高度に存在しもはや手術は不能とみられるような症例をあげている。又合併症として剥離の増悪、白内障、緑内障などを検討している。
もつともワック(R.C. Watzke)の報告(一九六七年)によれば三三例の重症例に液体シリコン注入を単独もしくは他の術式と併用して行なつた結果、六か月後では三三例中九例に復位がみられたが三年後には五例となり、視力に関しては六か月後に復位のみられた九例全部に改善がみられたが三年以上維持したのは二例に過ぎなかつたという。
又広島大学の日々の報告によれば昭和三八年から四三年までの間同大学眼科で液体シリコンを硝子体に注入した一五眼の遠隔成績を調査したところ、その結果は右ワックのそれと類似し、成功例も稀にあつて失明もある期間遷延させる意義はあるが、大きな評価を与えることは躊躇する旨述べており、この術式に対しやや否定的評価を与えている。
しかしマックパーソンの著書(一九七七年)は、たとえ併発症の危険性があるにしても高度硝子体退縮に対しては必要な治療法というべきであると主張している。
以上のとおり認められる。
原告の右眼は第二回入院後本件液体シリコン注入術がなされるまで、前記認定のとおり昭和四一年、一〇月七日、一一月一六日、一二月六日と三回にわたり様々な網膜剥離の手術がなされたにもかかわらず剥離は復位しなかつたので浅山教授が前記学説臨床例に基づきこの液体シリコン注入術を原告の症状に試みたことは相当であつたというべきである。当時本邦においては東北大学の治験報告があつただけである(広島大学では昭和三八年頃から行われていたことは前記認定のとおりである)が、外国においては多数の報告があり、その有効性も一応認められていたのであるから、実験的又は学問的興味からのみ施行されたということはできない。もつとも有効性についてはその後疑問視する論者もないではないが、当時の原告の網膜剥離の状態からすれば治療方法としてはこの液体シリコン注入術程度しか残されていないとみたことも無理とはいえず、又昭和四二年秋からは網膜はかなり復位している(ただしこのシリコン注入術による復位かどうかは断定できないが)ことをみてもこの術式の選択が間違いであつたということはできない。なお昭和四二年一二月頃から網膜に変性がみられているがその原因が液体シリコンにあるとは必ずしもいえず、長期間に及ぶ剥離の影響も無視できないのであり、仮に液体シリコンによる変性があつたとしても、それが失明の原因であるとは認められない。
(5) ビオゲラチンについて
乙号証、証人浅山亮二の証言によれば同教授は昭和二六年頃多孔性ゼラチン製剤であるビオゲラチンを創表面に散布し創縁の癒着に効果のあつたこと、を報告していることが認められ、ビオゲラチンの使用は創の接着に有効というべきであつてこれを誤用して悪影響を及ぼすことなどは到底考えられない。
(三) 以上の次第で原告の右眼が失明したのは京大病院における診療の不適切によるものとはいえず、かえつて同病院の手術、処置は適切で責められるべき点はなかつたと認められるのでこれに反する原告の主張は失当というべきである。
四原告の左眼について
(一) 原告の失明の原因について
原告左眼の病状及び診療経過を要約すると次のとおりでる。
昭和三八年五月三一日京大病院眼科外来で老人性白内障と診断され、同年七月入院し検査を受けたところ、眼底の下部と内側から上方にかけて類嚢胞性変性が発見され、内側周辺部には円孔が認められ前裂孔状態であつたので同月二六日ジアテルミー凝固術により網膜剥離予防術が行われた。同年九月退院時の視力は0.2P(マイナス4.75D、0.8P)。その後通院中網膜剥離はなかつたが白内障の方が進行したため昭和四〇年一〇月二八日には視力は0.07(マイナス5.5D、0.5)に低下し、第二回入院時には0.2(マイナス6.0Dでより鮮明)であつた。なおこの時の眼底検査でも網膜剥離はなかつた。同四一年七月六日嚢内法により水晶体摘出術を受けたがこの時少量の硝子体が脱出した。その術後瞳孔が上方に偏位したため同年八月二四日瞳孔括約筋切開術が行われたがこの時液化した硝子体が脱出した。同月二六日原告の自覚症状として視野の欠損があり同月二八日の眼底所見では、眼底の約半分の範囲が剥離していた。この時前房は脱出した硝子体で満たされていた。同年九月二一日網膜剥離術として輪状締結術が予定されたが、手術開始後瞳孔括約筋切開術の手術創が開したため手術は中止された。その後網膜剥離は急速に進行し、同年一一月七日には角膜には著名なデヌメ氏角膜皺襞があり、虹彩には前、後癒着があり、硝子体には膜様組織があつて網膜は高度に剥離し、虹彩の後面にまで及び、高度の硝子体変性及び網膜剥離が生じた。同月九日右開している強角膜創の縫合術が、同年一二月九日虹彩後癒着をはがすための光凝固術が行われたが、その結果はいずれも成功したとはいえなかつた。その後も左眼は撤照し得ず眼底の状態はわからなかつたが、前眼部の症状及び硝子体変性は増悪し、同四二年一月には前房内上皮下降増殖がみられた。同年三月三日液体シリコン注入術が行われたが症状は何ら改善されず、同年五月から眼球癆の傾向を呈し始め、同四三年八月の退院時は眼球癆で視力は光覚弁であり、その後失明した。以上のとおり要約できる。
右のとおり原告左眼は第一回入院時において右眼に比べて白内障及び網膜剥離とも軽く、第二回入院時もその状態は相対的に変わらず、証人福田富司男の証言によれば原告は左眼に大きな期待を寄せていたことが認められるのであるが、その後の経過をみると左眼の方が急激に悪化し、その程度も眼球癆となつて眼球は萎縮してしまい、当初は右眼よりはるかに良好な視力を有していたものが、第二回入院中は逆に右眼よりも先に光覚弁となり、眼球の状態も右眼より悪くなつたのである。そこでその原因につき検討を加える。
まず左眼の網膜がいつ剥離したかを考えるに、カルテ(乙第三号証)には第二回入院後昭和四一年八月二八日に至るまで原告左眼の眼底図は描かれていないが、前示のとおり同四一年七月六日の白内障手術の時以前には網膜剥離はなく、術後一五日目の同年七月二一日には矯正視力は0.3Pであつたからこの時期以後原告が視野欠損に気付いた同年八月二六日までの間に剥離が生じたのではないかと解したいが、その僅か二日前の同月二四日の瞳孔括約筋手術の際には硝子体は既に液化していたのであるから、右手術以前に剥離した可能性が強い。そうすると原告左眼に網膜剥離が起きたのは昭和四一年七月二一日から同年八月二四日頃までの間と推認される。
当裁判所は原告左眼に網膜剥離が生じた主因は原告の体質的素因であり、嚢内法による白内障手術中の硝子体脱出が誘因になつたと認めるのが相当と考える。前示のとおり原告左眼には昭和三八年の第一回入院時に類嚢胞変性があつたのであるからこのような網膜の変性を有する素因を有していたことが主因であることは否定し得ず、鑑定の結果によれば、本件における脱出した硝子体の量では通常網膜剥離は生じないというのであり、単に硝子体が前房の方へ移動しただけで網膜剥離は生じないから硝子体脱出が主因ということはできない。しかし最新医学手術書(医学書院)によれば、硝子体脱出によつて起こる術後合併症ならびに発生頻度として(1)瞳孔の偏位変形、(2)虹彩前癒着、(3)隅角の癒着、閉塞、(4)続発性緑内症、(5)硝子体前房ヘルニア、(6)角膜切開創の癒合不全、(7)角膜の混濁、浮腫、ジストロフイー、(8)前房の形成不全、遅延、(9)前房内出血、(10)脈絡膜剥離、(11)眼球内圧低下、(12)網膜剥離、(13)術後黄斑部変化などが発生頻度順にあげられており、これらは相互に絡みあつて原因となり結果となつている場合が多いとされていること(同書三〇二頁)、網膜剥離は水晶体の全摘出術後に二%程度発生するといわれており、術中の硝子体脱出が剥離の原因となることが往々にしてあると述べられていること(三一八〜三一九頁)が認められ、前示のとおり昭和四一年七月六日の白内障手術の際は硝子体はやや変化しているもののほとんど正常であつたものが、同年八月二四日の瞳孔括約筋切開術の際には変化していたのであるから、この間に硝子体の変性が起きたと推認され、更に又証人福田富司男は硝子体脱出が網膜剥離の誘因となることがある旨証言していることなどからすると、原告の左眼はもともと網膜剥離の素因を有していたうえに昭和四一年七月六日になされた白内障手術の際の硝子体脱出及び同月二三日、同年八月八日にみられた創口の開が引き金となつて発症したと推認される。
更に次の点からも硝子体脱出と原告の視力障害とは関連を有するといえる。昭和四一年八月二八日原告左眼に網膜剥離が発見されたためこれに対する赤道部輪状締結術が予定されたところ、瞳孔括約筋切開術の手術創が開したことが原因で網膜剥離の手術は中止され、以後も右創口の開のため、右眼に対しては精力的に行われた種々の網膜剥離の手術は左眼には行われず、手がつけられなくなつてからようやく液体シリコン注入術が行われたに過ぎない。すなわち創口の開のため網膜剥離を治療するための有効な手術が不可能となり、原告の左眼の網膜剥離は悪化の一途を辿つたのである(ただし右眼の経過に照らし、網膜剥離の手術を施行すれば、治癒したものと断定できないが)。右の開した創口は瞳孔括約筋切開術の創口であり、この手術は瞳孔の上方偏位に対するものであるところ、証人浅山亮二、福田富司男の証言により瞳孔の偏位は硝子体脱出の結果生じたことは明らかである。前示のとおり瞳孔括約筋切開術の創口は白内障手術と同じ創口であり、繰り返し同じ部位に切開を加えたことが創口の開の一因と考えられ、結局硝子体脱出→瞳孔偏位→瞳孔括約筋切開術→創口の開→網膜剥離の手術の不可能→失明という因果関係が疑われるのである。更に、昭和四一年一一月七日にみられた前眼部の炎症、硝子体の変性、網膜剥離は白内障手術時の硝子体脱出、瞳孔括約筋切開後の前房内硝子体脱出、創口の癒合不全・遅延の影響とみることができ、翌年一月の前房内上皮下降増殖も創口の開が原因であると認められる。したがつて創口の開の一因となつた硝子体脱出は網膜剥離の誘因となり、かつ網膜剥離に対する治療を不可能にしたばかりか原告の左眼の硝子体の退縮、変性を招来し、網膜剥離の増悪、眼球内の退行性変性を決定的にしたと解する余地がある。(ただし創口の開ないし癒合不全は鑑定の結果により原告の体質的素因が大きく影響していると認められる。)
以上のごとく原告の視力障害に対して昭和四一年七月六日に行われた嚢内法手術の際の硝子体脱出は少くとも自然的因果関係を有する疑いがあるので次に右硝子体脱出を招いたことにつき京大病院の医師ことに浅山教授に過失があるか否かを検討する。
(二) 硝子体脱出について
鑑定の結果によれば硝子体の脱出の原因としては次のものが考えられる。まず硝子体自体に原因がある場合として硝子体圧上昇、硝子体液化、硝子膜脆弱、硝子体前部硝子膜と水晶体後極との癒着(ウイガー靱帯)などがあり、水晶体娩出手技に問題がある場合として、術中硝子体圧低下が不十分なときや娩出時何らかの操作すなわちアキネジー不足による瞬目や眼球運動など眼球固定不十分なための外圧が加わつて眼球が圧迫された時がある。
<証拠>日本眼科紀要一七巻一〇号、前掲「最新眼科手術書」によれば硝子体脱出の頻度についての報告例は次のとおりである。
報告者
年度
嚢内法
嚢外法
井上正澄
1955
4.7%
――
今井晴一
1955
35.7%
17.7%
増田義哉
1956
37.0%
19.0%
百々次夫
1957
7.0%
5.1%
佐藤勉
1956
6.0%
――
1957
0%
――
田中直彦
1959
11.1%
――
丸尾敏夫
1964
10.2%
4.3%
神島文雄
1959
9.0%
2.3%
高野文夫
1962
64.0%
14.8%
岸本正雄
1966
8.4%
14.9%
右のうち岸本らの報告(乙第一一号証)では嚢外法の方が高率であるがこれは嚢内法によつて手術したところがその完遂に失敗し嚢外法となつた例を含むからである。右の報告例にあるように嚢内法の場合硝子体脱出の頻度は報告書によつて異り、六四%の高率のものや三〇%を超えるものもあるが、概ね一〇%前後あるということができる。
さて本件白内障手術の際硝子体が脱出した原因につき検討するに、証人浅山亮二の証言によれば同教授は水晶体を強角膜創から殆んど娩出したときに水晶体にくつついて硝子体が右強角膜創から少し顔を出す程度に脱出した、右脱出の状況からみて同教授は水晶体の後極とそれに接している硝子体の前面とに癒着があると考え、その旨主治医である福田講師に臨床講義の形で告げた旨証言している。甲号証によれば原告は同教授が右癒着について臨床講義をしたことを記憶し、甲第三号証(「私の病歴」)に「この手術の最中に浅山教授は『カルテに……の癒着の疑いがあると書いておくように』と指示されました」と記載していることが認められるのであり、以上の証拠を総合すると硝子体脱出の原因は浅山教授の証言通り水晶体後極と水晶体前面との癒着であると推認するのが相当である。鑑定の結果(註六)によれば硝子体と後極との組織連絡ないし癒着としてヴィガー靱帯と呼ばれるものが知られており、これは一五才以前は生理的に存在する、しかし時として青年期を過ぎてもこれが残つている人がある、このウィガー靱帯は白内障のため細隙灯検査でも判断できず偶然に遭遇することになりやすいことが認められ、原告の場合もウィガー靱帯があつたと推認される。
(三) 硝子体脱出の予防及び脱出後の処置について
(1) 原告は左眼は強度近視であり又眼圧も高かつたかも知れないから硝子体脱出を起こしやすい嚢内法ではなく、嚢外法を採用すべきであつた旨主張する。確かに前記報告例からすると硝子体脱出は嚢内法の方が頻度が高い。しかし先ず第一に原告左眼は第二回入院時の検査で0.2P(マイナス6.0Dでやや鮮明)であつたのであり、証人浅山亮二、福田富司男の証言によればマイナス6.0D程度では未だ高度近視とはいえないばかりでなく、高度近視眼が硝子体脱出を起こしやすいのは高度近視眼の硝子体は液化していることが多いからであるが、白内障の手術時原告の硝子体の性状はやや液化しているが殆んど正常であつたのであるから、この点からも右原告の主張は採り得ない。又眼圧検査は入院時になされただけで白内障手術直前にはなされていないが、入院時左眼眼圧は10.24mmHgで正常値の最下限にあつたのであり、証人浅山亮二の証言によれば、原告はアトロピンによる散瞳時に緑内障眼など高眼圧眼に特有にみられる激しい症状はなかつたことが認められ、前記認定の診療経過においても高眼圧はなかつたのであるから、白内障手術直前に左眼の眼圧が高かつたかも知れないというのは原告の憶測に過ぎず到底採用することはできない。
そこで左眼白内障の術式の選択の適否につき検討するに、原告の左眼は入院時検査では視力は0.2あり、微照法及び細隙灯による水晶体の混濁の検査からすると未熟白内障と認められ、かつ左眼については網膜剥離予防手術がされて網膜剥離はなかつたことから考えると嚢内法の適応であつたというべきである。もつとも前示のとおり原告左眼にはウイガー靱帯があり、嚢内法により水晶体を嚢ごと取り出したので硝子体脱出を招いたのであり、嚢外法を採用していれば避けられたかもしれないが、前示のとおりウィガー靱帯は一五才位までは生理的にあるがその後はなくなるのが普通であること、細隙灯検査によつてこれを事前に認めることはできないというのであるから、術前にこの存在を予見することは不可能であつたと認められる。
右の次第で原告の左眼は以前に網膜剥離の予防手術がされており、剥離の素因を有していたとしても、硝子体脱出の頻度、白内障手術の術後合併症として網膜剥離の起る頻度、白内障の成熟の程度等を勘案すれば、これに対し嚢内法を選択したことは、白内障手術について学識経験を有し、原告の左眼を三年来診察していた京大病院医師として術式選択の裁量の範囲内にあつたというべく、これを非難することはできない。
(2) 眼圧降下剤の投与、フリーリンガーの使用、強角膜切開創の大きさ、ネオシネジンのテスト等について
原告は白内障手術に際しダイアモックスなど眼圧降下剤を投与しなかつたこと、フリーリンガー輪を使用しなかつたこと、強角膜切開創が狭過ぎたことなどが硝子体脱出を招いたと主張する。しかし硝子体脱出の原因は前記のようにウィガー靱帯ないし水硝体後極部と硝子体前面との癒着と認められるので、右の処置と硝子体脱出との間の因果関係は認められない。しかし念のためその適否につき検討するに、証人浅山亮二の証言によれば、同教授は前置縫合系を三本置きウェッケル氏剪刀で強角膜を一〇時から二時位までおよそ三分の一切開する方式を嚢内法嚢外法を問わず採用していたこと、右のように切開創が狭いと縫合糸も少くてすみ、したがつて強角膜に与える刺激が少くてすむことが認められ、又切開創が狭いことは前記嚢外法と嚢内法との比較表にあるように大量の硝子体脱出や虹彩脱出に対して有利と推認される。もつとも強角膜切開が小さければ水晶体娩出に手間取り、その間に硝子体が脱出する危険もあることは否定できないが、鑑定の結果にあるように嚢内摘出の手技は術者が平常から慣れていてもつともやりやすい方式をとることにより手術全般を円滑に行い得ると考えられるのみならず、前示のとおり水晶体の娩出に手間取つたことはなかつたのであるから同教授が当時型の如く行つていた術式を本件についても採用したことに過失があるということはできない。
又証人浅山亮二の証言、鑑定の結果によれば本件手術当時白内障手術に対し眼圧を降下させるには球後麻酔だけがその方法であり、ダイアモックスは当時緑内障に投与していたが副作用があつて検討中であつたこと、同教授が退官して後術式がかわり、非常に大きく強角膜切開を行うようになつたため、球後麻酔のほか眼圧を下げるためにダイアモックスを投与するようになつたこと、フリーリンガー氏輪は当時虚脱状態にある眼球に手術をする際、眼球を球形に保たせるために用いたのでありそれ以外には使わなかつたこと、フリーリンガー氏輪が普通に用いられるようになつたのは昭和四五、六年頃から顕微鏡下手術が行われるようになつて以後のことであることが認められ、前示のとおり原告の左眼には高眼圧を窺わせる症状はなかつたから当時の水準からみればダイアモックス、フリーリンガー氏輪を使用しなかつた浅山教授の処置は概ね妥当であつたというべきである。
次にネオシネジンによる散瞳の時間を事前に検査しなかつたことは被告の認めるところであるが、これをしなかつたからといつて手術に支障を来たすとは認められないのでこの点の原告の主張も採用できない。
(3) 硝子体脱出後の処置について
前記認定の如く浅山教授は脱出した硝子体をウェッケル氏剪刀で切除し、前置した縫合糸を締め、スパーテルで硝子体を整復したのであるが、原告は硝子体は切除してはならず冷水又は生理的食塩水をかけて自然に硝子体が後退するのを待つべきである、又切除するにしても縫合糸を締めてから切除すべきである旨主張する。たしかに右の処置を勧める論者もあるようであるが、それは大量の硝子体脱出を予防する意味であり、本件では硝子体脱出は少量にとどまつて大量脱出はなかつたのであるから同教授の処置で十分であつたと認められる。
更に原告は前置縫合糸が一本はずれたのに追加縫合しなかつたため、脱出した硝子体が強角膜創に嵌入し創口の癒合を妨げたと主張する。しかし証人浅山亮二の証言によれば硝子体が強角膜創にないことを確認したうえでそれを縫合したというのであり、その他前掲乙第三号証(入院カルテ)の術後の創口に関する記載も創適合良好とされていること、創口の開は術後大分経つた七月二三日及び八月八日にあり術直後はなかつたことからすると硝子体の創間嵌入はなかつたと認められるばかりでなく、証人綿織劭の証言によれば、術中強角膜は柔かくなつていたため強角膜縫合ができずこれに代えて角結膜縫をしたというのであるから、前記認定の二本の角結膜縫合を追加した処置はやむを得なかつたというべきである。
更に又原告は硝子体脱出があつたため術後の瞳孔偏位は当然予想されるから上方の虹彩の切除又は下方の瞳孔線の切開をすべきであるのにこれがなされず、又術後縮瞳剤の点眼も怠つた旨主張する。
しかし前示のとおり硝子体脱出後虹彩を整復し、アセチルコリンによる前房洗浄及び前房内空気注入も行われ、縮瞳剤ピロカルピンも術直後及び七月八日以降点眼されている(七月七日の点眼は必ずしも明らかでない)のであり、脱出した硝子体が少量であつたことを勘案すると瞳孔偏位を防止する処置は万全ではなくとも右の程度で足るというべきである。
なお白内障手術後の創口の開は術後一七日目の七月二三日及び二三日目の八月八日に観察されているが、その程度はカルテの記載によるとそれぞれ「ほんの僅か創が開いているか」、「やや開」と僅かであり、当時前房の深さには異常がなかつたのであるから前房水の流出はなかつたと推認され、この程度の開であれば再縫合は必要なかつたものと解される。
以上要するに昭和四一年七月六日の左眼白内障手術の際硝子体脱出は術者浅山教授の過失に基づくものとはいえず又脱出後の処置も概ね妥当であつたというべきである。
(四) その他の処置について
(1) 原告は瞳孔括約筋切開術の際の洗眼により網膜剥離が生じたと主張するが、前記認定の網膜剥離の発生機序及び鑑定の結果に照らし到底右主張は採用できない。
(2) 又昭和四一年一二月九日の光凝固により硝子体変性が生じたと主張する。しかし前記認定のとおり光凝固を加えたのは虹彩の瞳孔線であり、これにより硝子体変性を生じたことはなく、硝子体の変性はそれ以前からあつたのであるから右主張も失当である。
(3) 昭和四二年三月三日の液体シリコン注入術も前記右眼のところで判示したところからすると、当時原告左眼は創口の開のため赤道部輪状締結術などの強膜の外から侵襲を加える手術ができず、硝子体は高度に収縮していたから、液体シリコン注入術の適応といえ、術式の選択等に誤りはない。なお原告はこの時創口が開し前房水の流出により眼球癆になつたと主張するが、右手術の際前房水は流出しておらず、前房水の流出は同月一三日に認められたのであり、又そのために眼球癆になつたとは到底認められない。眼球癆になつたのはそれまでにあつた高度の網膜剥離硝子体の変性創の開などの諸原因のためと解される。
(4) ビオゲラチンを使用したことが誤りでなく、又失明との因果関係がないことは右眼について判示したところと同様である。
(五) 以上の次第で、原告左眼の失明の原因として昭和四一年七月六日の白内障手術の際の硝子体脱出及び創口の開が関与していることは否定し難いけれども、右硝子体脱出を招いたことについて京大病院の処置に過失はなく、又鑑定の結果によれば創口の開は原告の体質が大きく影響していると認められるのであり、その後の手術及び処置にも不適切なところは見出せないのであつて、これに反する原告の主張は採用できない。
五京大病院における診療体制について
原告は京大病院の診療体制について種々不満を示しているので言及する。
(一) 前記認定のとおり主治医である福田富司男講師は昭和四一年六月一〇日の右眼白内障手術、同月二九日の切嚢術に立会わず、同年七月六日の左眼白内障手術にも途中からしか立会わなかつた。手術を受ける患者にしてみれば主治医が立会つて手術の経過を詳細に観察し、これを踏まえて術後の処置をしてもらいたく思うのは無理からぬことであるが、当時同講師は入院患者のみならず外来もみなければならなかつたのであり術中の経過は執刀者又は介助者から報告を受ければわかることであるから立会わなかつたことをそれほど非難することはできず、又それによつて術後の処置に不適切なところが生じたと認めることはできない。
(二) 昭和四一年七月六日の白内障手術及び同年九月二一日の左眼に対する手術については主治医である福田講師と術者である浅山教授との間で左眼、右眼どちらの手術か、又術式は何か等につき連絡が不十分であつたことは否めない。これは患者にとつては不安なことであり、決して好ましいことではないが、だからといつて手術及び処置が不適切であつたと推認することはできない。
(三) 更に又、弁論の全趣旨によれば当時は眼科教室において症例の検討や術式の決定につき、教授以下教室の若手の医師らスタッフの間で自由な討議は行われず、専ら経験豊かな教授の判断が優先していたこと、いわゆる大学紛争後はこれが改められてカンファランスという討議の機会が設けられるようになつたことが窺われ、当時の診療体制に問題がなくもないが、この点も本件においては手術、処置の適切さとの間に因果関係は認められない。
(四) なお前掲乙第三号証(入院カルテ)に、昭和四一年六月一〇日施行の右眼白内障に対する手術の手術経過及び同年一二月一六日の右眼網膜剥離の手術(シリコンプロンベ縫付術)の手術経過がいずれも記載されてなく、証人福田富司男の証言によるとこれは主治医である同医師が書き忘れたというにある。
これも決して好ましいことではないが、前示のとおり右二つの手術は順調に行われ、術中に特記すべき事態もなかつたのであり、右カルテの記載の不備は被告のその後の処置等に影響があつたとは認められない。
第五結論
以上説明のごとく医学を専攻したのでない当裁判所ではあるが本件の真相の把握と診察の当否について精一杯の究明を遂げ原告の現状は京大病院の責に帰すべき事由によるものということはできないという結論に達したので、それを理由とする原告の本訴請求は爾余の判断を俟つまでもなく失当としてこれを棄却する。
想えば原告は京都市の高級職員として市立加茂川中学校長、京都会館々長、音楽短大事務局長、北区長等を歴任した上日本コンデンサー工業株式会社の平井嘉一郎社長よりその人材を見込まれ同社の役員として入社が内定し将来は社長の地位迄嘱望されていたので今後の活躍に備え眼疾患を一掃しようと思い勧められてわが国で最高の眼科の権威と目される京大病院での治療を求め、長年月に亘り入院して数次の手術を重ねたに拘らずその期待とは全く裏腹に両眼とも治療に成功せず失明に追い込まれた痛恨さは察して余りありといわねばならないが京大病院側としてもそこの各医師就中浅山教授は神ならぬ身の完全とはいえない迄もその体得した知見、経験を駆使して各種の方法を用いて治療に当つたに拘らず所期の目的を達し得ず不満足な結果となつたものであつて前記理由中説明したごとく細い点で不十分な点があるものの京大病院に診療契約に反し受任義務に違背するものがあると判断することはできない。
浅山教授の行つた手術の中左眼に嚢内法を採用したことが硝子体脱出をもたらしそれが網膜剥離の引き金になつたのではないかと見ること前記のごとくであるから侵嚢のより少い嚢外法に止むべきだつたという原告の主張は諒解できるし後から見れば或は嚢内法を採らず嚢外法をとつたら別の結果を辿つたかも知れないといえるが浅山教授としては当時に於ける自分の経験、知見に基づきこの方が原告の治療により役立つと考えて嚢内法をとつたのであり、この方法には時に硝子体脱出が伴うことがあるので原告の場合もそれに当つたためその後の経過がよくなかつたのであるが白内障が未熟であつたこと等浅山教授がこの方法をとつたことにも十分根拠があり当時の学問、技術水準に反するものとはいえないのでこの故を以て浅山教授のこの術式選択に過失ありとみることは相当でない。又両眼に液体シリコン挿入術を用いたことも結局原告の網膜剥離を治癒する効果をあげることが出来ず、却つて原告に苦痛を与えたのでないかと思われるがこれも浅山教授としては原告に対する過去屡次の手術が何れも効を奏さなかつたため最後の方法としてこの術式を選んだのであり、この術式も学理的に矛盾はなく、この術式による治験例も報告されていたのであるからこの術式を選んだことを非難することはできない。当裁判所としては医師の努力で更に眼病治療方法が進歩発達し原告をはじめ多くの患者の苦痛が除去される日の来ることを希うのみである。
(菊地博 川鍋正隆 天野実)